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「あたまいすたあ」が施術いたします
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「あたまいすたあ」が施術いたします
頭部のケアを考え抜いた「あたまいすたあ」がこわばった頭周りをじっくり丁寧に解きほぐし、お悩みやお疲れをケアいたします。働くお客様の味方として、心を込めて施術いたします。ご希望のコースやお悩みなどをどうぞお気軽にご相談ください。
ストレスが溜まると気が高ぶって睡眠にも影響を及ぼすことがあります。また、在宅勤務などで目を酷使して眼精疲労が蓄積すると筋肉が張ってしまうことがあります。知らず知らずのうちに積み重なっていくストレスや疲労をやわらげ、非日常的な空間で特別なリラクゼーション体験ができるヘッドスパはいかがでしょうか。アクセスも駅から徒歩約5分とアクセスしやすい立地でお気軽にご利用いただけます。また、予約制のため、周囲を気にすることなく力を抜いてリラックスできます。お客様に癒しを堪能していただける環境を整えて溝の口で営業しております。
某有名ドライヘッドスパ専門店併設のスクールにてドライヘッドスパの基本の技術を学んだ後、リンパや整体の他様々な手技を融合し独自のメニューとして完成させました 当サロンでしか体験出来ない進化系ドライヘッドスパ《NEO寝落ち/ネオネオチ》で忙しい貴方の睡眠を向上させるだけでなく頭から全身を整えます!
好きなもの:旅行・遺跡・バルセロナ・メキシコ・鉄道・橋・空・水星・冥王星・高いところ・ジェットコースター・ラピスラズリ・龍・青・紫・寿司・うなぎ・ハンバーグ・カレー・スポーツ観戦・LOVOT・graniph・SPY×FAMILY・SixTONES
得意なこと:旅行計画・言語能力・四字熟語・スポーツニュース・マルチタスク・タイピング・情報収集・情報処理・即断即決
苦手なこと:粉薬・バリウムの前に飲む発泡剤・アルコールの入っていない炭酸飲料・栄養ドリンク・からし・マスタード・マヨネーズ・すっぱいもの・数学・理科・絵を描くこと・スポーツ・裁縫・瞬間記憶
静岡県浜松市で三人姉妹の長女として生まれた私は祖母に佳寿美(カズミ)と名付けられました
柴谷(シバヤ)という名字もさることながら下の名前も珍しい為、クラス替えなど初対面でフルネームを間違えられずに呼ばれることはほとんどなく、郵便物でも柴田や渋谷、芝谷、紫谷などいろんな偽名!?で届きますが、父宛に澁谷という名字で届いた時はさすがにそれはないな、と思いました…澁谷さん、という方がもしお読みになっていたらすみません!
子供の頃は両親に祖父母、三姉妹、そして叔父叔母と同居しており、当時でも大家族と呼ばれる9人家族でした!
私は小学2年生にして既にランドセルで肩こりの自覚があったこともあり、叔母の行きつけのあん摩さんに連れてってもらったりしたことがあります
その頃から大人になるまで肩がほぐれた記憶がなく、またどのように揉めば気持ちが良いか身をもって理解していた私は、得意の肩揉みで家族じゅうの肩を揉んでは皆からお小遣いをもらっていました
人形遊びやおもちゃ、ゲームやお洋服にほとんど興味の無かった私が小学校の高学年の頃に珍しく家族にねだった物は全身のツボ図鑑!
肩揉みがさらに上達してくれるならと家族は喜んで買い与えてくれました(笑)
運動と絵を描くのが大嫌いで、幼稚園の頃からピアノをやっていたのでやりたい&やれる部活動と言えば音楽系くらい…
小学生の時にファンファーレバンドでトロンボーンを始めて以来、中・高と吹奏楽、大学ではオーケストラとずっとトロンボーンを吹き続けていました
こう書くと練習漬けの毎日っぽく響くと思いますが、ある程度の譜面であれば練習しなくても経験で吹くことが出来てそこまでの強豪校でもなかったので、大の練習嫌いな私にとっては毎日必死に練習しなくても楽しく過ごせる天国のような部活の日々でした♪
高校生になって自分の進路などを考えた時にふとあん摩さんのようなマッサージ師がいいなと思ったのですが、小2で受けたあん摩さん目が見えない人だとは知らず、また手汗がすごくてテスト用紙がふやけてしまうほどの多汗症だった私は母にそんな手がベタベタしてたら無理でしょ、と言われて整体の専門学校に進学するのを諦め、海外に興味のあった私は世界を飛び回るツアコンになるべくスペイン語を学ぶ為に大学に進学したのでした…第2章へとつづく
無事に第一志望の大学に合格し、地元浜松から神奈川県に上京?した私
神奈川県は隣県ですし、都内に出た訳でもなく家賃以外は浜松より物価の安いところで上京というのも何だかしっくりきませんが、とにかく念願の一人暮らしのはじまりです!
生まれてすぐは両親と3人暮らしだったのですが、その後長男だった父は祖父母や兄弟の叔父叔母との同居を始め、家の中ではなかなか一人になることは出来なかった私は一人暮らしへの憧れがずっとありました
とにかく進学して一人暮らしをするぞ~と受験勉強をそれなりに頑張り、見事第一志望の大学に合格!
高校の3年間は今思えば人生の中でもかなりの絶調期だったかもしれません
大学近くのアパートを見つけて生活もエンジョイするぞ!と意気込んで、サークルはトロンボーンが吹けるオーケストラ、賄い付きの飲食のウェイトレスのバイトを見つけて深夜まで働き…勉強は???
一人暮らしになって朝起きるのが余計にしんどく、またスペイン語の勉強もめちゃくちゃ難しくて勉強嫌いな私は次第に付いていけなくなり、典型的なダメ大学生になっていきました…
時代はちょうどバブルが弾け就職氷河期を迎えた頃
同じ学部の特に女性の先輩方は就職難と言われる時代にとても苦労されているのが分かりました
楽しくバイトをやっていた私はその頃から働くのが好きだという実感がありましたが、自分にとってやり甲斐のない仕事はお金の為だとしても絶対にしたくないと考えていました
もし大学を無事に卒業したとしてもやりたくない職業に就くのは嫌でしたし、元々ツアコンになりたいと進学を決めたので、旅行会社社員になるのならともかく、ツアーコンダクター専門でやっていきたいのであれば大学を卒業しなくても派遣のツアコンにならなれる!と思い、それなりに仕事で役立てられるスペイン語を学ぶには留学だ!と大学を中退し、渡西することにしました
せっかく受かった大学を中退してまで留学するというのはさすがに両親に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、やはり日本でぬくぬくと語学を学ぶよりもその身一つで海外に飛んでしまった方が言葉ははるかに身に付くと思います
またツアコンになりたいと言いつつも海外渡航歴もその時点で5、6回位だったので良い経験だったかなと思います
そして向かった先はスペイン・バルセロナ
スペインにお詳しい方でしたら、スペイン語学ぶのにバルセロナ?とお思いかもしれませんが、バルセロナはかつてスペイン内戦でその地方独自のカタルーニャ語が禁止され、スペイン語のみ許された地
今は公用語がカタルーニャ語とスペイン語となっていますので、スペイン語を学ぶのに絶好の地という訳ではないのですが、留学前にスペインを訪れた際にバルセロナの素敵な街並みに惚れ惚れしてしまって是非住んでみたい!と思ったのがきっかけでした
バルセロナでの楽しい語学留学の日々はあっという間に過ぎ、日本へ帰国することになりました
しばらく実家で過ごしながら、ツアコンになる為に今度こそ上京を果たすのです!…第3章へとつづく
ようやくツアーコンダクターになれたものの世の中はバブルが弾けデフレ真っ只中・・・
ツアコンデビューしたばかりの私は日帰りのバス旅行に添乗したり、たまに宿泊ツアーの添乗をしていました
その頃の日帰りバスツアー代は破格で、3800円などという今では考えられないような金額を目にすることもありました
そうなると当然新人ツアコンのお給料など知れたもので、また週3~4日など安定してツアーにも就けなかったのでなかなかに厳しい一人暮らしでした
それでも徐々に仕事に慣れてきて、春にツアコンになって年明け位には海外添乗デビュー出来るのではないかと期待に胸を膨らませていた初秋、私はツアーの為に日の出前に起きて時計代わりに付けていたTVを見て驚きました!
夜アメリカで発生していた航空機事故が同時多発テロ事件へと発展していたからです
家を出ないといけないと思いながらもテレビの中で起きていることが現実とは思えず、なかなか身支度が進まなかったのをよく覚えています
それからしばらくは事前に決まっていた国内添乗のお仕事をしていましたが、海外ツアーがストップして仕事がなくなってしまった先輩方にツアーを奪われるような形で添乗員を続けることが出来なくなり、もちろん海外添乗員としてもデビュー出来ないまま添乗員の夢を諦めることになりました…第4章へとつづく
第3章を添乗員時代としていますが、春に添乗員デビューし、911を目の当たりにしてその年末にはツアコン会社を辞めましたので実質半年ちょっとのツアコン時代でしたがとても濃密な経験でした
それからすぐに持っていた資格と少しだけあった旅行会社経験を活かして旅行会社へ就職することになります
夢だった添乗員はまた情勢が落ち着いたらやろうなどと考えておりました
ひとまず一人暮らしを継続出来そうな感じだったので安心したのも束の間、入社した旅行会社がとにかく忙し過ぎでした!
旅行会社というイメージからはかけ離れていて、パッケージツアーの販売や旅行の行程を立てたりすることはほとんどなく、専ら格安航空券を売りまくるという職場でした
少数精鋭と言えば聞こえは良いですが、人件費と残業代を削って利益を残すという今で言うところの超ブラックだったのです!
定時って一体何時だったか忘れてしまうほど終業時間からがようやく本番という感じで、夕飯を食べることもままならずひどい時には毎晩終電というような日々でした
そうなると週末には何もやる気が起こらず休みが終わっていくのをただ物悲しく過ごしていたりしていました
それでも何とか続けられたのはたまには会社がお弁当を支給してくれたり、旅行会社にしてはボーナスはまあまあもらえていたからだと思います
後になって全てサービス残業だったことを思うと大した額でも無かったのかなと思いますが…
そんなキツイ会社だったせいかせっかく社員が入社しても辞めていくサイクルがとても早く、私は在籍3年足らずでチーフへと昇進もしました(笑)
ですがこんな生活を3年も続けていると不意に心身が持たなくなりました
ここで終わらないと蝕まれてしまうと考え思い切って退職を決断します
今度は正社員ではなく、サービス残業のない派遣社員になって割り切って働こうと思い派遣会社に登録し、貯めたお金で3週間の中南米の旅行をして思いっきりリフレッシュしました…第5章へとつづく